2013年 05月 10日
世界の半分、あるいは豆の
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近所のスーパーでインゲン豆を探していたが見つからず、エプロンをした男性の店員を呼び止めて、インゲン豆かひよこ豆の売り場はどこですか、と尋ねたときのこと。
「豆の水煮缶でも良いんですけど」
「えっと……うずらの玉子なら、2階にあります」
なんと。
私と彼の間にあった空気が、局所的に重力を与えられ、ぼとんと足下に落ちてきた気がした。
私は今までコミュニケーションというものを過大視していたのかも知れない。言葉の力を信じすぎていたのかもしれない。
現にいま、この状況はどうだ。スーパーのレジの若い女の子がわざわざフロアから呼んできた、販売主任の名札をつけているこの男性。インゲン豆の場所を尋ねたら、「水煮」の言葉に引っ張られてうずらの玉子を示してくる、40代のひとりの人間。同じ言語を使いながらも、この、全く繋がらない会話の行方。
「豆……」
くぐもる声で私は呟く。
今までが恵まれすぎていたのだ。こちらがおーいと発した言葉を理解して応えてくれる人がいた、そのこと自体多大な幸運だったのだ。世界の半分は、きっとこんな風な噛み合わないやりとりの埃からできているに違いない。自分の鈍感さにあきれて、頭をがちんと殴られたようなショックを感じた。
その日は世界の半分を見た記念に、うずらの玉子の水煮を買って帰った(豆は買えなかった)。
by iwafuchimisao
| 2013-05-10 06:18
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