2011年 10月 18日
視線の強度
|
中平卓馬の『なぜ、植物図鑑か』を再読している。
中平氏は、詩人か写真家か迷った末に写真を選んだだけあって、その言葉ひとつひとつが真摯過ぎて、安易に読み飛ばすことを許さない。自分の絶えざる世界との出逢い、それだけを重視することによって「記録」という言葉を再度定義し直そうとする写真家がこれほどまで言葉を操るとは、人間の才能とは恐ろしい。
結果、なかなか読量が進まなくて、私ぐぬぬぬぬ。
しかたないので、作中で触れられている「(私の視線をはじき返して起ち上がる事物に所属する)幻想性」の引き合いに出されているアラン・ロブ=グリエのことを考えよう。それは私の中では必然的に名画『去年マリエンバートで』に繋がってゆく。
デルフィーヌ・セイリグの美しさやシャネルの衣装の絢爛さもさることながら、変奏曲のように少しずつ調子を変えながら奏でられていく男女の会話、不自然に伸ばされた人々のシルエットなど、誰かの記憶のホテルに迷い込んだかのような体験が忘れられなくて、上映がある度に見に行ってしまう不思議な映画だ。
が、今は視線の強度の話。
脚本のアラン・ロブ=グリエはこの映画制作に際して、シナリオではなく、頭の中でそれが上映されている様子を紙の上に再現して、監督のアラン・レネに渡したという。つまりは視線の共有だ。
「男が歩いてくる、男はこう言う、背後には木が見える、遠くには噴水がある、カメラがゆっくりと男の顔をアップにする……」
といった具合に。
演出まで含めて、脚本と監督が当初から同じ絵をみていた、というのは映画では大変珍しいのではないかしらん。そしてこの作品において、両者の間の意思の疎通は完璧であった、らしい。完全な客観性の共有。中平氏はロブ=グリエらのヌーヴォー・ロマン小説の手法を例に挙げ、『「客観的に」叙述すること、そのことによって事物と「私」との絶対的な背反、その分水嶺をただあきらかにしようとしているに過ぎない……だがまさしくこの一点、私の視線がはじき返されるその一点から、事物の視線は私に向かって投げ返される』と繋ぐ。あああああああほら難解でしょう?(実際、この映画でも最初に4つの視線(脚本)が作られ、それがばらばらにつなぎ合わさって構成されているためにストーリーは難解な印象を受けるが、ロブ=グリエ曰く「非常に緻密に計算されたもので、曖昧さのかけらもない」作品とのこと)
「私の視線と事物の視線とが織りなす磁気を帯びた場、それが世界」
(『なぜ、植物図鑑か?』より)
「それが世界だ」なんて言い回し、私も人生で一度でよいから使ってみたいわ。私が世界の中心、といった認識が芸術になるのではなく、私と世界の無限の〈出会い〉のプロセス、それ自体が従来の芸術行為に代わるものである、と中平氏は宣言しているのね。ああなんかそれって、私たちがいつもジンとかで(うまく言葉を選べないながらも試行錯誤して)やってることに近かったりはしないのかな???
噛みしめて、読みます。
追記:
池袋・新文芸坐にて11/12 アラン・レネ特集(オールナイト)
去年マリエンバートで
夜と霧
ミュリエル
ヒロシマモナムール
上映だそうですよ!
中平氏は、詩人か写真家か迷った末に写真を選んだだけあって、その言葉ひとつひとつが真摯過ぎて、安易に読み飛ばすことを許さない。自分の絶えざる世界との出逢い、それだけを重視することによって「記録」という言葉を再度定義し直そうとする写真家がこれほどまで言葉を操るとは、人間の才能とは恐ろしい。
結果、なかなか読量が進まなくて、私ぐぬぬぬぬ。
しかたないので、作中で触れられている「(私の視線をはじき返して起ち上がる事物に所属する)幻想性」の引き合いに出されているアラン・ロブ=グリエのことを考えよう。それは私の中では必然的に名画『去年マリエンバートで』に繋がってゆく。
デルフィーヌ・セイリグの美しさやシャネルの衣装の絢爛さもさることながら、変奏曲のように少しずつ調子を変えながら奏でられていく男女の会話、不自然に伸ばされた人々のシルエットなど、誰かの記憶のホテルに迷い込んだかのような体験が忘れられなくて、上映がある度に見に行ってしまう不思議な映画だ。
が、今は視線の強度の話。
脚本のアラン・ロブ=グリエはこの映画制作に際して、シナリオではなく、頭の中でそれが上映されている様子を紙の上に再現して、監督のアラン・レネに渡したという。つまりは視線の共有だ。
「男が歩いてくる、男はこう言う、背後には木が見える、遠くには噴水がある、カメラがゆっくりと男の顔をアップにする……」
といった具合に。
演出まで含めて、脚本と監督が当初から同じ絵をみていた、というのは映画では大変珍しいのではないかしらん。そしてこの作品において、両者の間の意思の疎通は完璧であった、らしい。完全な客観性の共有。中平氏はロブ=グリエらのヌーヴォー・ロマン小説の手法を例に挙げ、『「客観的に」叙述すること、そのことによって事物と「私」との絶対的な背反、その分水嶺をただあきらかにしようとしているに過ぎない……だがまさしくこの一点、私の視線がはじき返されるその一点から、事物の視線は私に向かって投げ返される』と繋ぐ。あああああああほら難解でしょう?(実際、この映画でも最初に4つの視線(脚本)が作られ、それがばらばらにつなぎ合わさって構成されているためにストーリーは難解な印象を受けるが、ロブ=グリエ曰く「非常に緻密に計算されたもので、曖昧さのかけらもない」作品とのこと)
「私の視線と事物の視線とが織りなす磁気を帯びた場、それが世界」
(『なぜ、植物図鑑か?』より)
「それが世界だ」なんて言い回し、私も人生で一度でよいから使ってみたいわ。私が世界の中心、といった認識が芸術になるのではなく、私と世界の無限の〈出会い〉のプロセス、それ自体が従来の芸術行為に代わるものである、と中平氏は宣言しているのね。ああなんかそれって、私たちがいつもジンとかで(うまく言葉を選べないながらも試行錯誤して)やってることに近かったりはしないのかな???
噛みしめて、読みます。
追記:
池袋・新文芸坐にて11/12 アラン・レネ特集(オールナイト)
去年マリエンバートで
夜と霧
ミュリエル
ヒロシマモナムール
上映だそうですよ!
by iwafuchimisao
| 2011-10-18 06:09
| BLOG