2010年 04月 16日
LOVESONG (S/N)
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森美でやっているS/Nを一人で見に行った。私はこの作品が映像になってからしか見たことがなく、リアルタイムで対峙できなかったことが残念なのだが、それでも都内で上映の際には時間を作って臨んでいた。初回では全く意味が分からず、古橋悌二の「memo randam」というリトルモアから出ているインタビュー集を人に薦められるがままに購入し、浅田彰の言葉なんか読んで、表層上はわかったような顔をしていた。時を変え場所を変え、何度か見続けるうちにもしかして、とても重要なことを言っているのでは、ぼんやり思うようになった。そして、今回、S/Nを見て、初めて、泣いた。
私は今まで心のどこかで、やさしさとか愛とかいうものは、(まるでお肌の潤いのように)足りなかったらドラッグストアかなんかで売ってて、ある程度個人の裁量で表面上どうとでもなるものなのではないかと疑っていた。言葉にするととても下品な感じがしたのであえて言わないまでも、そういう姿勢で物事の敏感な部分を処理していた。つまりは冷たい人間だった。
ところが今回、改めて彼らが問いかける“LOVESONG”について考えた時に、初めて、自分の裡から涙が出たのだ。私は私の中から愛が生まれ出ないことを、本当に知らされたのだ。そういうものはお店で売っていないのだと初めて知ったような気がした。私は永遠に迷い続けるのかも知れない。性懲りもなくまた誰かを傷つけたり自分で自分の悪意に打ちのめされたり、試行錯誤し続けるのかも知れない。そして恐らくいやきっと、次の上映もまた見に来るのだろうと、何かを確かめにくるのだろうと強烈に思った。
「ダムタイプのS/Nを見たことがないという下品な人」などは言わないまでも、上映中に席を立つ人は多く、その嗜好性ゆえ万人に受け入れられる題目ではないのかもしれないとは思う。しかし若いひとよ!自分が何かを得るまで何かを失うまで何かを愛せるまでもしかしたらずっと、例えば、まだ、本当に聞いていないのなら、古橋悌二のメッセージに耳を傾けてみてはどうだろう。森美の六本木クロッシングのサブタイトル、「芸術は可能か?」とは、古橋悌二からの問いかけなのだ。
私は今まで心のどこかで、やさしさとか愛とかいうものは、(まるでお肌の潤いのように)足りなかったらドラッグストアかなんかで売ってて、ある程度個人の裁量で表面上どうとでもなるものなのではないかと疑っていた。言葉にするととても下品な感じがしたのであえて言わないまでも、そういう姿勢で物事の敏感な部分を処理していた。つまりは冷たい人間だった。
ところが今回、改めて彼らが問いかける“LOVESONG”について考えた時に、初めて、自分の裡から涙が出たのだ。私は私の中から愛が生まれ出ないことを、本当に知らされたのだ。そういうものはお店で売っていないのだと初めて知ったような気がした。私は永遠に迷い続けるのかも知れない。性懲りもなくまた誰かを傷つけたり自分で自分の悪意に打ちのめされたり、試行錯誤し続けるのかも知れない。そして恐らくいやきっと、次の上映もまた見に来るのだろうと、何かを確かめにくるのだろうと強烈に思った。
「ダムタイプのS/Nを見たことがないという下品な人」などは言わないまでも、上映中に席を立つ人は多く、その嗜好性ゆえ万人に受け入れられる題目ではないのかもしれないとは思う。しかし若いひとよ!自分が何かを得るまで何かを失うまで何かを愛せるまでもしかしたらずっと、例えば、まだ、本当に聞いていないのなら、古橋悌二のメッセージに耳を傾けてみてはどうだろう。森美の六本木クロッシングのサブタイトル、「芸術は可能か?」とは、古橋悌二からの問いかけなのだ。
by iwafuchimisao
| 2010-04-16 05:43
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